そこはかとなくマニアな日記
(遙かなる時空の中でファンサイト付属日記)
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このシリーズどこまで行けるのかなと思いつつ、最近遙か5関連で検索してご来訪くださる神子さまがちらほらいらっしゃるので(いらっしゃいませーv)、もう少し頑張ってみようかと思っております!
なんて頑張るまでもなく、遙か5公式がいろいろ更新されてて滾りました!!
ヴォイスも乗ってますね。イメージどおりだった方、ちょっと意外だった方、それぞれ魅力的で楽しみですvvv
しかし都さん反則だ。
わたしもう、みやこさんしかこうりゃくできないかもしれない……(^^;
閑話休題(笑)。
各キャラの簡単なプロフィールも掲載されていたので、そりゃもうネットの海に突撃しましたよ!
いきなりブックマークが増える増える(苦笑)。
ちょっと意外だったのが、チナミ君の「水戸藩 天狗党」。
確か天狗党って芹沢鴨と関係のあるあの…(涙)と、がんがん潜ってきました。
元治元年(1864年)3月、幕府が出来ないなら俺たちが夷狄(異国)を打ち払う!と、筑波山で挙兵した水戸藩の尊王攘夷の志を持つ集団でしたが、後に幕府も倒そうぜという倒幕派と、敵は夷狄だけだよという敬幕派に分かれます。(…うおぉ中略;)
同年11月、敬幕派を中心とした天狗党千人あまりが、志を天皇に直接訴えようと京都へ向けて進軍したのですが、12月に越前で幕府の大軍勢に包囲され降伏。翌年にはリーダー格の武田耕雲斎、藤田小四郎を中心に300名以上ものメンバーが処刑されました…。
チナミ君が天狗党の首領格ということは、物語のスタートは元治元年より前から?
それともチナミ君だけ生き残ったのか。
ううう、気になります!!
ちなみにリーダーの一人、藤田小四郎は藤田東湖の息子。東湖は父幽谷と並んで、水戸学の権威。教科書で勉強した記憶がありますv
水戸学は、夜8時45分の「この紋所が目に入らぬか!」で有名な先の副将軍・水戸光圀公がライフワークとしていた日本の歴史書、『大日本史』の編纂を引き継ぎ、その編纂と共に行われた日本歴史研究。
でも歴史研究って、いろんな思想が入り交じるんですよね……年号の記述ひとつとっても、同時に二つの年号が存在した年とかもあるし。遙か3の頃なんてそうです。壇ノ浦の戦いは寿永4年でありながら元暦2年。安徳天皇を認めるならこの年は寿永、安徳天皇が平家と一緒に都落ちしたために即位した後鳥羽天皇を認めるなら元暦。
南北朝時代を考えるともっとシビア…;;;
何をもって正しいとするか、情報の取捨選択は、記述する人の思想によって左右されます。
水戸学もいろんな人の思想の対立によって、様々な変遷があったようです。
藤田さんご一家は優秀な学者を排出した為、対立の立役者にもなっていますね。
しかし、藤田東湖は父幽谷の代で先鋭化した水戸学の学閥(みたいな;)対立の混乱を収めるべく、水戸藩主徳川斉昭とコンビを組んで尽力しています。
融和思想を持っていらしたんですね。この思想があったからこそ、後年「公武合体」が唱えられ、ひいては江戸が戦火で焼かれずに済んだ……と言えるかも知れません。
それから、藤田さんの家系は、小野篁に繋がっているそうですよ!(by wiki)
「冥府の官吏」ですねv
なんて頑張るまでもなく、遙か5公式がいろいろ更新されてて滾りました!!
ヴォイスも乗ってますね。イメージどおりだった方、ちょっと意外だった方、それぞれ魅力的で楽しみですvvv
しかし都さん反則だ。
わたしもう、みやこさんしかこうりゃくできないかもしれない……(^^;
閑話休題(笑)。
各キャラの簡単なプロフィールも掲載されていたので、そりゃもうネットの海に突撃しましたよ!
いきなりブックマークが増える増える(苦笑)。
ちょっと意外だったのが、チナミ君の「水戸藩 天狗党」。
確か天狗党って芹沢鴨と関係のあるあの…(涙)と、がんがん潜ってきました。
元治元年(1864年)3月、幕府が出来ないなら俺たちが夷狄(異国)を打ち払う!と、筑波山で挙兵した水戸藩の尊王攘夷の志を持つ集団でしたが、後に幕府も倒そうぜという倒幕派と、敵は夷狄だけだよという敬幕派に分かれます。(…うおぉ中略;)
同年11月、敬幕派を中心とした天狗党千人あまりが、志を天皇に直接訴えようと京都へ向けて進軍したのですが、12月に越前で幕府の大軍勢に包囲され降伏。翌年にはリーダー格の武田耕雲斎、藤田小四郎を中心に300名以上ものメンバーが処刑されました…。
チナミ君が天狗党の首領格ということは、物語のスタートは元治元年より前から?
それともチナミ君だけ生き残ったのか。
ううう、気になります!!
ちなみにリーダーの一人、藤田小四郎は藤田東湖の息子。東湖は父幽谷と並んで、水戸学の権威。教科書で勉強した記憶がありますv
水戸学は、夜8時45分の「この紋所が目に入らぬか!」で有名な先の副将軍・水戸光圀公がライフワークとしていた日本の歴史書、『大日本史』の編纂を引き継ぎ、その編纂と共に行われた日本歴史研究。
でも歴史研究って、いろんな思想が入り交じるんですよね……年号の記述ひとつとっても、同時に二つの年号が存在した年とかもあるし。遙か3の頃なんてそうです。壇ノ浦の戦いは寿永4年でありながら元暦2年。安徳天皇を認めるならこの年は寿永、安徳天皇が平家と一緒に都落ちしたために即位した後鳥羽天皇を認めるなら元暦。
南北朝時代を考えるともっとシビア…;;;
何をもって正しいとするか、情報の取捨選択は、記述する人の思想によって左右されます。
水戸学もいろんな人の思想の対立によって、様々な変遷があったようです。
藤田さんご一家は優秀な学者を排出した為、対立の立役者にもなっていますね。
しかし、藤田東湖は父幽谷の代で先鋭化した水戸学の学閥(みたいな;)対立の混乱を収めるべく、水戸藩主徳川斉昭とコンビを組んで尽力しています。
融和思想を持っていらしたんですね。この思想があったからこそ、後年「公武合体」が唱えられ、ひいては江戸が戦火で焼かれずに済んだ……と言えるかも知れません。
それから、藤田さんの家系は、小野篁に繋がっているそうですよ!(by wiki)
「冥府の官吏」ですねv
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